教育にどこまで可能か
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20081110/p1
この記事を読んでid:fromdusktildawn氏にちょっと好感を覚えた。
今後、世界中の、あらゆる価値ある知識は英語で生産され、英語で流通する。
インターネットの普及が、その流れをますます加速している。
世界中の知的にパワフルな人々は、ますます母国語よりも英語で読み、英語で書き、
英語で議論しながら、価値ある学術的成果・文化・商品・サービスを創り上げていくだろう。
そうして、日本語圏は、三流芸人が軽薄にバカ騒ぎするバラエティー番組や
スポーツマンや芸能人の下半身の話題をさも重大事件のように扱うゴシップ雑誌、
知性のかけらもない動物的で脊髄反射的なネット書き込みばかりがあふれる言論空間に堕ちていく。
id:fromdusktildawn氏は前々から「世界のフラット化によって知的産業に世界中から実力のある低賃金労働者がなだれ込むから、英語ができない奴はどんどん下層に追い込まれるぞ」と誇張気味に(一部ではとっくに起きている。本当に誇張かどうかは、これからわかるだろう)言うことで、英語ができず、英語ができないことに不満を抱いている層を挑発しているようにも見える。
でも俺が好感を覚えるのは、俺が比較的「安全圏」にいることや、エントリの趣旨に賛同するというのもあるが、その他に、万人向けの公教育に意味のあることなど何もできないと思っている俺に比べて、この人が公教育とその長期戦略(教育政策)の力や可能性を信じていることに対してだ。
一部の知的エリートだけがバイリンガルであればいい時代の終焉は、
もう、すぐそこまで迫っているのである。
そして、梅田望夫氏や小飼弾氏のような、ウルトラスーパーエリートにとっては、
たいした負担ではないかも知れないが、
せいぜい上位20〜40%ぐらいのごく普通の日本人にとって、バイリンガルになるということは、大変な負担だ。
このため、学生時代は、バイリンガルになるために大量の時間を使わざるを得ず、
その時間を削って、近代日本文学の学習に大量の時間とエネルギーを割り当てるなど、
時として自殺行為になる。
俺の世界観だと、「一部の知的エリートだけがバイリンガルであればいい時代の終焉は、もう、すぐそこまで迫っている」のは本当だが、たとえ対策として公教育におけるバイリンガル育成が打ち出されたところで、勉強の仕方も楽しみもしらないダメ生徒と英語を教えてるのに英語を満足に話せないことすらあるダメ教師と相変わらずリーディングに著しく偏ったダメメソッドであふれる平均的な公立教育においてバイリンガルが生まれるはずがない。公教育のプログラムがどんなに正しい理念に足場を置こうが、他を削って国文学を重視しようが英語を重視しようが、理念を実行する現場の質が低すぎてどんなものもほとんどゴミになるのだ。大衆向け公教育はそういう「凝集された価値」を一切生み出せない。まぁネットにこれだけの情報がある今、そういった所から異常値的に優秀な人材が現れることは十分あるだろう。しかし教育が意図的にそういう人材を作ることはできない。
このことに気付いている優秀な親は、子供が次の社会を生き抜くのに必要な能力をつけさせるために子供を塾に通わせて優秀な子どもの集まる上位校に合格させ、上位校の優秀な教師が生徒の知的好奇心を引き出したり危機感を煽り、生徒達の中でも好奇心と危機感を持った優秀な生徒が周りと刺激しあいながら自ら学び、ネットを通じて世界と新しいネットワークを築く。バイリンガルが高密度で生まれる環境は、未来においてもこのようにごく個人的、限定的な部分にしか発生し得ないと俺は思っている。それはすなわちid:fromdusktildawnがエントリの最初に書いたような、上が向上し下が多くなることによる今以上の相対的不平等社会の到来だ。俺の考えでは、公教育によって平均的な学生にこの未来を回避させることなど絶対に出来ない。
限られた知的リソースを自分の選択した学問・知識・スキルを学ぶために費やす自由を与え、
たった1回しかない、他のいかなる人生とも、絶対的に交換不可能な、
自分のリアルな生を自分の選択で生きられるようにすべきなのではないだろうか。
公教育と公教育を受けた者の未来にこうした期待を置くのは、相当の愛と信頼に満ちた考え方である。俺はうんこである。氏に好感をもった(´・ω・)
※俺が馬鹿にしたいのは主にシステムで、ダメな教育に巻き込まれた個人個人の人生が一人残らず終わってるとは全く思っていない。ただ、復活はシステムの復活からなされるものでなく、個人の意志や危機感や才能によってきわめて個人的になされるものである。