センスの欠如から抜け出すべく

こう、いろんな人が間違えている問題に対して、比較的正解に近い答え、ってあるよね。


常識:テレビや雑誌は信用できないが、新聞は信用できる
正解に近い:新聞は一般に信じられている程は信用できない


常識:官僚制とか天下りとか全部我々の血税の無駄である
正解に近い:官僚制や天下りというシステム自体は非常に有用である


常識:みんなで協力して地球温暖化を防ごう
正解に近い:温暖化より重大な問題が死ぬほどあるのに、温暖化に莫大なムダ金がかけられている


常識:とりあえず貯金しよう
正解に近い:定期預金なんかしてないで、自分で考えて資産運用しないとダメ


常識:とにかく人を殺してはいけない
正解に近い:人を殺してはいけない原理的な理由などない


特にビジネス書なんかを見てると、その種の正解がたくさん並んでいたりする。


確かにそれらの答えはそれぞれ論理的な裏打ちがあり、何も知らない人が直観的に出す答えよりは幾分マシである。また、自分の思い込みが論理によって覆されることは楽しい知的刺激でもある。こうした正解をたくさん理解していることで「自分は大衆と違う」という思いを強めることができるかもしれない。


ここで問題がある。上にあげたものは全て、そこそこ大きな集団にとって既に新たな「常識」となっていることだ。確かに常識と違う事を最初に言い始め、周りに納得させた人はセンスがあり、大衆と違う。しかし、それが本やブログ等を通じて広く知れ渡り、ちょっと賢くなった大勢の読者達が皆「自分は大衆と違う」と思い始めたら、その状況は少々滑稽に見える。


最後の例のように、みんながいつまでも間違い続けている問題については面白おかしくネタにし続けることができるかもしれない。しかし、こうした新しい言説のほとんどは、みんながその存在を知り、したり顔で他の人に説明するようになった時、単なる「前より正解に近い答え」となり、最初にあった知的刺激や、常識と違う事を言うスリルを失ってしまうのだ。


つまり、本を読んでたくさんの「正解」を知っている人は実用レベルにおいて他の人より賢く行動することができるかもしれないが、そこに、最初の発案者と大衆を分ける要素たる「センス」はない。こういうことをふと思い始め、大衆を馬鹿にする大衆、という言葉が頭に浮かんだ時から、俺のビジネス書を読む量が少し減った。


ここにおいてセンスを維持し続ける唯一の方法は、人と違うものを提起し続けることだ。多少間違おうが叩かれようが、その中のいくつかが新しい常識として定着したなら、その人は間違いなくビジネス書を読み漁って正解をたくさん知った人よりも「センスのある人」である(ここでは、実用上どちらが使える人かを問題にはしていない)。俺は常に無難な正解を言う人よりもセンスのある人でありたいし、こういう意味で分裂勘違い君劇場が好きである。