格差社会というイデオロギー

格差社会」「弱者切り捨て」はなんというか、既に一種のイデオロギーですね(´・ω・)


なるほど、少なくとも自分が不幸せだったり不満足な時、それを自分の実力のせいだと思うよりも、例えば「格差社会」のような大きな社会構造、自分には責任のないもののせいだと思った方が楽という傾向は、僕も含め人間に広く認められるものでしょう。問題はそのこと自身ではなく、ここまで一つの言説が広がると、人々は自分が抱いている不満の原因を全て「格差社会」「弱者切り捨て」に帰してしまうかもしれないことです。不幸せの原因はもしかしたら他の所にあるかもしれないのに。社会が一つのイデオロギーに染まることは、公の議論を単純化、矮小化し、色々な問題を含んだ社会構造の全体最適化を遅らせ、不満の根本原因を解消から遠ざけてしまいます(´・ω・)

人間を幸福にしない日本というシステム

人間を幸福にしない日本というシステム

「日本企業は、社員にコミットメントや忠誠心、不合理な共同体の論理を強制し、個人の意思やプライベートを犠牲にすることを強いてきた。ここに日本のサラリーマンが不幸せな原因があり、新卒偏重と流動的な労働市場の不在がこれを支えている」


こうした言説は、実感がないとか言われつつも日本の景気が上昇傾向にあった数年前にはよく聞かれたように思いますが、最近めっきり聞かなくなりました。問題が解決されたからでしょうか。あるいは日本人にとってこの問題が重要でなくなったからでしょうか。僕にはそうは思えません。この問題はいまだ広く続く人間性の侵害であり、ある程度恵まれたホワイトカラー正社員やその候補者にとって、非正規雇用が削減されることよりずっとシリアスな事柄だと思うのですが(´・ω・)


雇用の流動化と厚い労働市場が生まれる仕組み作りが喫緊の課題だと僕は思いますが、今の「空気」の中で雇用をもっと流動化すべきだとか主張したら袋叩きにあうかもしれません。非正規社員が雇用の安定を訴えるのは一向に構いませんが、ホワイトカラーがより多様で「人間的」(生活不安者の求めるそれとは違う)な働き方を求める動きがどさくさにまぎれてかき消されている気がします。雇用の流動性に関する議論では、ギリギリの人々とそうでない人々は分けて考えるべきでしょう。雇用の流動性は前者を苦しめ、雇用の硬直性は後者を苦しめるているので、十把一からげに雇用の流動性を高めるべきだ、いや雇用を安定させるべきだ議論するとわけわからなくなると思います(´・ω・)


本日記は、力と欲望にあふれる知的で文化的なアウトサイダーを応援します(´・ω・)