どしどし間違おう

匿名文化それ自体は嫌いじゃない。匿名でないと生まれにくい、馬鹿さを極限まで追求したエンターテインメントも多数存在する。顔と名前が知れてなお野菜をレイプできる馬鹿がどれだけいるというのか。


一方で、名前や肩書きを気にして言いたいことが言えない現実世界の補完物としての「匿名文化」から生まれる(メディアリテラシーの向上や、野菜レイパーのような)有意義な生産物も、だんだん減ってきたんじゃないかと考えている。長期的には、

1:実名で、言いたいことも言えないこんな世の中

2:匿名で、言いたいことが言える便所の落書き

3:実名で、言いたいことが言える世の中

という移行が望ましい。今は匿名だけどidによって区別はできる発信源が強くなってきてるから、2と3の間で大多数は2寄りといったところか。


移行のコストを上げているのは、間違ったことを言えば寄り集まってそれを叩き、訂正した時には「あなたはこういう間違えた過去があるのに、えらそうに言えるのか?」とネチネチ言ってくるクズの存在だ。彼らはマスコミを嫌っている割に、やっていることがマスコミと変わらない。俺の場合は、現実世界でまで黒歴史を量産しながら何度もポジショニングを変え続けているし今後も変えるので、今もこのブログをみてどこかで笑っている連中の顔をリアルタイムで具体的に想像することができる。要するに悪意に慣れてしまっているので、そういうクズについてはスルーとアク禁を組み合わせて対処しながらえらそうなことを言い続けることが可能だが、一般的には実名が匿名に一方的に名前を知られる状況というのは不利であるし、叩かれるのは精神的負担になる。移行には、クズに何言われてもいいやという神経のずぶとさと不遜さとある種の自信とアク禁が必要だ。


もっと実名で言いたい放題言える風潮が根付けばいいと思う。間違ったこととか変なこと言ったのに後で気づいたら、すぐ意見を変えればいい。黒歴史とかどしどし残せばよいし、politicallyにincorrectな真似もどしどしすればいい。言いたい放題言ってあとで自分で違うって思ったら訂正する人が好きだ。そういう感じで意見がコロコロ変わる人の方が、不完全なくせに一貫性を気にして小さくまとまってる人よりよっぽど信用できる。昔の偉いおじさんが言ってたように、君子は豹変するのだ。


偉い人ほど後者に陥るけど、偉い人は間違ったこと言わないし、間違ったこと言ったら言っただけ偉くなくなるっていう風潮がいけないよね。偉い人も意見を発信しまくって堂々と間違いまくればよい。アメリカで第一線の学者(マンキュー・ベッカー・クルーグマン等々)がブログで自分の意見を発表したり議論したりするのに、日本の学者はブログで発信とか(池田信夫氏のような先進的変わり者を除き)まずしないし、討論会ですら意見がぶつかりあわないのはそういうのが原因の気がする。経済学者とか経営学者がモノ申さなくなったら終わりだろうが(´・ω・)


間違いを恐れると意見の手数が減るから、有望な意見も減る。特に学生なんて、無知なことを相手にきちんと知られている(僕のようにすごく頭のいい学生ですら←、社会に出たら当分お荷物である)上に偉い人みたいに失うものもないので、とりあえずは意見の手数を増やすことが長期的に価値を増やす。そんなわけで、匿名のネットでも実名のリアルでも言いたい放題言っていこうと思ったKanedoでした(´・ω・)

追記
自らの正義を貫いて逮捕された無職の日記にコメントしたらつながってしまったので、念のため本名削除(´・ω・`)