敗者復活装置としての体育会

<結論>
縦社会+集団主義という体育会系の文化を持つ共同体は、能力がなく冴えない人間にも、生きるのに不可欠な自尊心を供給する「敗者復活装置」としての一面を持っている。


<本文>

大学生として生活していると、主に体育会系の部活に存在する、馬鹿馬鹿しい伝統ないし通過儀礼(という名の単なる下級生いじめ)について時々耳にします。曰く、マクドナルドのハンバーガーを大量に食わされ、どれだけ食べられるかで部内における「偉さ」が決まったりするなど。また、そうした団体は大抵の場合、競技能力と無関係の無駄に厳格な上下関係や、過激な飲み会も行っています※

※そして年に何人かは、このような団体に属する学生から死者が出ます。勿論そこまで悪質なものはごく一部でしょうが。



そのうちの通過儀礼だけとっても、僕だったら内容を聞いた時点でそのあまりの頭の悪さに、「うんこちんちん。しね(´・ω・)」等のコメントを残してその場で辞めるような内容なのですが、そのように理不尽な扱いを受ける新入部員や下級生が、なぜ速やかに部活を辞めないのかが前々からの疑問でした※。もちろんその決定が個人の自由なのは分かっていますが、感覚として理解できなかったわけです。運動するにしても何するにしても、もっとまっとうな場所がいくらでもあるじゃないかと。プライドないのかと。「本当に頭悪くて軽蔑するけど、スポーツは大好きでやりたいからまぁ妥協してやってた(友人談)」という人もいましたが、それだけでは説明できない何かがあるように感じます。

※こうした組織的特徴は体育会系の部活に限らず、一部日系企業や宗教団体など様々な組織や共同体に見られますが、部活の場合は仕事と違って「辞めるという選択が実質いつでも行使できるにも関わらず、自発的に参加し続けている」「金銭などの具体的インセンティブに支えられていない」という所に面白さを感じるので、この記事では中心的に扱っています



しかしここ数ヶ月、部活に不満をもらしながらもなかなか辞めない人と話したり、図書館で見つけてきた以下の本を読んだり、去年の東大駒場祭で委員長をやっていた友人から「お前みたいに『個』として生きられるやつは少数派だと思う」という言葉を聞いたりしながら考えているうちに(ちなみに僕自身は個として生きてるわけでなく、属してるコミュニティが多いだけですが)、なんとなくの理由が見えてきました。僕の仮説は、彼らの中には、共同体に自尊心を人質に取られている人がいるというものです。すなわち彼らにはプライドがないのではなく、プライドがあるからこそ理不尽に耐えていた。以下でこの構造を説明していきます。

洗脳するマネジメント~企業文化を操作せよ

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うそつきの進化論―無意識にだまそうとする心

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自己肯定感を得る、自尊心を補給するというのは、現代人にとって栄養を補給するのと同じ位に大事なことです。例えばそれは、「かっこいい自分」「運動のできる自分」「頭のいい自分」「異性にもてる自分」「友達がたくさんいる自分」「必要とされている自分」などを認識することによってなされます。しかしその一方で、人によってはこれを自力で補給することが、栄養を補給することに比べてはるかに難しいこともあります。体育会系の部活に代表される、縦社会+全体主義的な組織は、そのような人にも自己肯定感を与えるためのシステムを持っているのではないでしょうか。



彼らはまず個人に「○○部の一員」「○○マン」というアイデンティティを与え、「先輩の指示には必ず従う」というような、考えることを放棄するのに適したルールを叩きこみます。そして、「部の伝統=重んじるべき」「部が大会に勝つこと=素晴らしい」「団体にずっと所属すること=素晴らしい」というような、コミュニティ内で通用する価値観を刷り込んでいきます。組織に居続けることにはしばしば多くのストレスが伴いますが、その中で頑張り続ければ、組織は(あらかじめデザインされた)目標に向かって努力する体験、挫折体験、成功体験を提供してくれます。自分の存在を認めてくれる人も周りにたくさんいますし、学年が上がれば自分が威張れる対象である下級生も入ってきます。今までの生活の中で、成功体験や他人に認められる経験、敬われる立場になる体験を渇望していた人にとって、この体験は強烈なものではないでしょうか。体育会系の組織は、個人では輝けない人、他の場所では輝けない人でも、きちんと耐え続ければ「辞めていく人もたくさんいるのに頑張っている自分」「下級生より偉い自分」「志を同じくする仲間がたくさんいる自分」「大会に勝ったチームの一員である自分」という自己肯定を得られる仕組みになっているのです。



上級生から「伝統」と称して理不尽な扱いを受けた下級生が、今度は後輩を持つようになった時に理不尽な風習を廃止したがらないことも、この議論を用いて説明可能です。第一に、彼らは「苦労に耐えて成長した自分」という自意識を構築しているので、後輩にも同じことをするのがためになるという考え方をします。第二に、彼らの自尊心はその部活の長い伝統に寄りかかって成立しているので、その伝統を否定するような改革はしたがらないでしょう。第三に、児童虐待の事例でよく知られているように、理不尽な扱いを受けた人間は、自分より弱い立場の人間を手に入れると復讐とばかりに理不尽な扱いをすることが多いです。(また場合によっては、資金を提供しているOBの意向という面もあるかもしれません。その場合もOBが継続したがる理由は同じでしょうが)



さて、僕が新歓期に見てきた(正確には強制連行のような感じで見せられた)限り、体育会系の新歓イベントでは、部のメンバーが仲良くしているところや大会の映像など、組織に属することの魅力をこれでもかこれでもかというほど新入生に見せつけます。そしてプレゼンには多くの場合「伝統」「大学でしかできないこと」「何かを成し遂げる」という単語が頻出します。このようなプレゼンにひかれて集まってくる学生には、もちろんそのスポーツが好きで好きでたまらないという人もいれば、漠然とした無為感をこれからの大学生活に感じ、なにか具体的なもの、「強度」を渇望して来る人もいるでしょう。そういう人の一部が、組織に対する帰属を通して自尊心を補給する人になります。彼らは他に自尊心の補給地点を持たないので、組織から理不尽な扱いを受けても耐えるしかないのですが、逆に「理不尽な扱いに耐えて頑張る自分」「苦しみを乗り越える自分」という自意識を構築し、さらに組織に対する依存度を高めていくと予想されます。人間の適応能力とは素晴らしい。



とある僕の友人は、高校時代の部活で自分が顧問から受けている理不尽について周りにずっと愚痴をこぼしていたのですが、現役で大学に進学して即座にアメフト部に入りました。どうやら、この手の組織には中毒性があるようです。冒頭で触れた部活をなかなか辞めない「彼」は、先輩の圧力的な引き留めを恐れていたのではなく、「部から離れたら、自分は何も成し遂げていない無力な大学生になってしまう」と感じ、自らのアイデンティティの危機のようなものを感じていたのではないでしょうか。



<参考>

自尊心、依存、組織に関するここでの議論は、体育会系の部活動だけでなく、「社畜」や宗教団体の分析にも使えそうですね。ここでは他のトピックについて、似たようなテーマを扱っている文章を中心にリンクします。またこの記事で扱った部活は恐らく多くが自然発生的にできた文化ないしシステムですが、amazonリンクを付けた「洗脳するマネジメント」は、成果をあげるために組織文化や従業員の経験を意識的に作り上げる企業について、フィルードワークを通して分析した良書です。



根暗な報酬のこと-レジデント初期研修用資料
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/793

ある日のテストが60点で、頑張って次回80点取れた子供がいたとして、その子はたぶん、「20点増えた」という喜びと、「20点分見下せる奴が増えた」という、根暗な喜びとを、報酬として体感することになる。


努力や頑張りの報酬には、明るく表明できるものの裏側に、必ず根暗な何かがセットになっている。人を誘ったり、説得するためには、もちろん「明るい報酬」を前面に出さないといけないのだけれど、報酬には、常に根暗な側面がセットになっていて、そのことに自覚的でないと、どこかで上手くいかなくなるような気がする。


「明るい報酬」は希望を生むけれど、「根暗な報酬」は、自意識の地盤を固める。脆弱な地盤の上に、希望のお城を打ち立てて見せたところで、お城が大きくなるに連れて、いつかは地盤ごと、お城が倒壊してしまう。


ネットの炎上は人類進化の必然で、健やかなる新時代を拓く鍵かもしれない -分裂勘違い君劇場
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20090621
より、「会社は社員を馬車馬のように働かせるために、「偉さ格差」を利用する」など偉さ格差の議論

おおよそ人間が作り上げる組織というものは、命令指揮系統があり、上下関係がある。それなしには、組織の責任システムは機能せず、組織は十分に機能できない。また、直接命令せず、部下の自由裁量でやらせるようなタイプのマネージメントスタイルであっても、部下の実態を把握し、部下の目的を明確にし、方針を与え、目標を設定し、それを評価する必要がある。


そして、原理的には、マネージメントする側の人間と、される側の人間に「偉さ」の序列を作る必然性などない。ビジョンを作り、方針を打ち出す管理職は、単にそういう役割を持つ人間なのであって、管理職から方針を受け取り、その方針に従って行動する人間もまた、単にそういう役割を持つ人間であるというだけで、原理的には「どちらが偉い」ということにする必要もない。大企業のマネージャーが高校野球部のマネージャー程度の「偉さ」であっても原理的には十分にシステムは成り立つはずだ。


ところが、現実には、部下を「くん」付けで呼び、自分の権威を誇示しようとする上司が後を絶たない。また、企業の側も、この醜悪な「偉さ格差」を利用して、社員を競わせて社員を激しく働かせ、搾取する。たとえば、銀行員の人達と酒を飲むと、やたらと人事のうわさ話が出てくる。彼らは、同期のうちだれが早く出世するか、誰が出世が遅れるかにただならぬ興味を示す。
出世の遅れた人間は、先に出世した人間に嫉妬する。同期の人間同士で、先に出世されて見下されまいとして、必死に成果を上げようと競い合う。大手の銀行の人事管理とは、オヤジ同士を互いに嫉妬させて競い合わせるという、かなり悪趣味なシステムだ。


このように、組織の上下関係をそのまま「偉さの序列」に転化することは、企業が社員を馬車馬のように働かせるための手段になっているため、原理的には必ずしも必要とされない「偉さの序列」を、意図的に作り出す企業も多い。それこそ、オヤジをオヤジに嫉妬させるため、滑稽なほどのビジュアルで「偉さ格差」を演出する。たとえば、平社員は肘置きのない椅子に座らせ、昇進して課長になると、肘置き付きの椅子になる。さらに出世すると、机の位置が窓際になり、机のサイズも大きくなる。ほとんど子供じみた滑稽なほどの「偉さ格差」の演出で、今でも思い出すたびに笑いがこみ上げてくる。


私はなぜ親鸞会をやめたのか
http://shinrankai.mindcontrol.tonosama.jp/index.html



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