今起きている茶番について

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東京都・青少年健全育成条例改正案について - Lo-Fi Project ANNEX
http://d.hatena.ne.jp/enmotakenawa777/20100315/1268675119

今回の改正案などを読み、わたしは「子供は、下賤な表現を欲しがらない」ことを前提とされているように思いました。絶対にそんなことはないです。人間である限り、子供らにも欲望はあるでしょう。ない、と言い切るのなら、子供らが可哀想に思うのです。それは「人間扱いされてない」、ということだと思うからです。

わたしは、本当に必要なのは、清濁あわせもって子供らを導いてやれる大人だと思うのです。その一種が、作家・クリエイターと呼ばれる人達だと思います。私は、親にすら言えなかった前述の経験を、漫画や小説によって昇華することができました。「そういうこともあるのだ」と。子供にしてみたら過激な表現をした作品でしたが、それらの作品がなかったら、私は未だにふさぎこんでいたかもしれません。


都議会なんて飾りですか? - agehaメモ
http://d.hatena.ne.jp/ageha0/20100316/p1

「わたしのあたりまえ」と「だれかのあたりまえ」には、必ず違いがあるものです。人の世の不幸の多くは、「わたしのあたりまえ」を他人様に押し付けることから始まるものです。そこをわきまえた上で「望み得る最善」に向け汗を流すのがデモクラシーであると自分は考えます。表現の自由はその礎石となるものです。他のなにものにも代え難き金科玉条とは思いませんが、デモクラシーを支える大礎石であります。私の気が確かなら、表現の自由は全ての自由の母であり、他の自由を護る最後の砦であります。ごく少数の有識者に「みだりに」委ねべきものではありません。


この問題に関する論点はネットで出尽くしている気がするので、僕が新しく論じることは特にありません。東京だけでこのような規制を敷いた所で、中小の本屋さんが困ってネット通販が儲かるだけだと思いますし。(その意味で、積極的な反対活動を行うなら、「表現の自由」のような文脈でなく、書店や商店街といった地域社会を巻き込んでのロビー活動を目指した方がいいかもしれませんね。ネットでは反対で大体固まっているようですが、問題は、「敵」がネットの言論など届かない場所にいることです)



だからここでは、僕の立ち位置から言うべきことだけ言おうと思います。


「少年の心の闇」みたいな言説を並べる大人は、そんなもの抱えずにぬくぬくと育った人間ですし、それとどう向き合い、受け入れるべきかも知らないでしょう。そういう人を「子供」と言います。「子供」が寄り集まって健全な青少年の育成について話している国とは、もはや皮肉でしかない。


なにが育成だ。優秀な若い世代に愚鈍な大人が教えられることなど、社会への憎しみ以外に何一つない。基本は放任して自分で学ばせながら、致命的な間違いだけはしないように守ってやるのが我々にできる唯一のことだろう。思いあがるな(´・ω・)


一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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