先日の議論に関する最終追記

※「論点を網羅して、自分の言いたいことを言いきる」ということだけ考えて、読みやすさを一切考えていないので、昨日の議論にコミットしてない人は読まなくていいかもしれません。多分返信もしませんし。


「就活くたばれデモ」は、惜しいけどすごく間違ってる
http://d.hatena.ne.jp/kanedo/20100118/1263822404


昨日の件に関する僕のコメントや追記は、とりあえず打ち切ろうと思います。若干疲れたためです。反論してくださる方の中には、真剣にこちらの意図をくんで議論をしようとしてくれる人も結構いらっしゃり、それを無視するのはよくないと思っているのですが、大体は「正しい読み方」「正しい解決方法」「何が正しそうか」といったことに一切興味がなく、自分を正義にし、相手を悪にしたてあげて叩くのが楽しいだけというタイプの人だということに気付きました。また烈海王風に言うと「我々が2000年前に通過した地点」の議論をどや顔で突き出してくる人が無限に供給され、相手すると非常に疲れるが、言われっぱなしもなんかスッキリしないと言う圧倒的に損なゲームだったように感じます。この村での「正しさ」をめぐる権力争いには参加しないのが得策という、ネット友人達が出した結論に一周遅れで納得しました。これからは一つ前の記事のように、再びより少数の読者に向けて記事を書いていくと思います。


一応、ここまで出た論点については思うところをまとめておこうかと思います。(態度批判が散見されましたが、論点でないので除外)


まず、僕がデモという手段そのものを否定ないし禁止しているように読んで反論している方は、僕の意図からすると誤読です(テクストが書き手の手を一度離れたらそれは読み手のものであり、誤読もくそもないという見方もありますが)。僕は今回のデモに「現状のどこに問題があるか」「どうすれば解決に近付きそうか」という考察が一切ないことを感じ、個人の美学的な観点から批判した上で、今回のデモが実質的効果を持たないことを就活ゲームの構造を論拠に予想しましたが、それは「デモ一般が無駄だ」「デモをすべきではない/してはいけない」という主張ではありません。問題解決を目的とするなら、デモするにしても少しは戦略を考えたほうが効果があるんじゃない?という主張です。この見方に従うと、理念も打算もなく憂さ晴らしに終わるデモがあっても、問題解決には寄与しませんが、別にいいでしょう。


次の論点として、「デモが無計画なものであっても、それを通じて社会に問題提起がなされることが重要では?」という反論があって、この指摘は考える意味があります。確かに、参加者やニュースを見た人の考えるキッカケという点ではこのデモに意味があるかもしれず、その点は最初の記事を書いた時にはあまり意識していませんでした。一点気になることとしては、この主張の前提にあるのは、「社会に認知されれば、みんなが意見を出し合っていずれいい解決策が自然と出てくるのでは?」という考えですが、これは僕の見る限り正しいことも間違っていることもあり、一概には言えないので中立的な立場を取りたいと思います。例えば、様々な運動を通じて非正規雇用の問題は社会的に認知されましたが、それは結果として温情主義的な「非正規雇用を禁止」という方向に向かい、雇用のコストを上げることを通じて失業率を高めるという形で問題を悪化させようとしています。違う例として、地球温暖化についても様々な運動を通じて認知され、温暖化を防ぐために様々な活動が行われていますが(温暖化を防ぐことは有用ととりあえず仮定)、伝染病や食糧、水問題といった世界の人々にとってより喫緊の課題に比べ、明らかに過剰な資源と注目が集まって非効率な状況を生んでいるようにも見えます。「みんなの知恵」は問題を改善しうるが、悪化もさせうるというのが僕の見方です。だから僕は、人々の間での思考の自然発生に任せるだけではなく、行動を起こすにしてもまず考え抜く、あるいは考えながら行うことで、その問題に触れている時間が長い人を中心に議論を深化させるのが望ましいと思っています。ブコメの議論では選択肢が「行動せずに考える」か「考えずに行動する」かの二択のように捉えられ、「行動するのはいいけど、確かに現状の方針には問題があって、少しでも考えて行動すればもっと効果があるかもしれない」という見方が少なかったように思います。やるなら問題解決の最短経路でないとダメとは思いません。ただ、動きながら考えることもできるのに、なんでヒステリックに考えることを拒否するのかなぁという疑問はあります。


最後に、「kanedoは知性や理性を過信して、そういったものを推し進めることで問題が解決できると思っている。世界は理性だけで動いているわけではないのに」という批判がありました。kanedoの考え方が19世紀的な理想論だいうことでしょう。これは意識的にやっている節があります。「理性」「主体的個人」といった西洋近代的な価値観に限界があることは散々指摘されてきたことですし、kanedoだって主体的な人間が理性を発揮することで全ての問題が解決すると思っているわけではありません。また全ての構成員にそのような理性を押し付けるのが健康的発想でないことも理解しています。ただ、西洋近代的な価値観を否定する時、本当にその100%を放棄していいのかという問題があります。ポストモダンは確かに西洋近代的理想の裏にある沢山の抑圧や欺瞞を発見しましたが、それでも僕は、「国家」や「市民社会」という、西洋近代的な理念のもとに作られた仕組みを運営管理する上では、いくらか西洋近代的部分を残すべきだと思っています。それは具体的には、問題が見つかった時に、何が「最善」(≠「真実」)かを様々な方向からロジカルに考え抜くことです。知性や理性は万能ではありませんし、いくら掘り下げても「真実」なんて出てきませんが、使い方次第でちっとは問題解決の役に立つのではないでしょうか。僕はそう思っていますし、だからこそ大いに「考える」ことが大切だと思っています。